大和屋100周年特別企画!
大和屋の太田啓一社長と、太田社長の旧友で、350年以上の歴史を誇る瀬戸焼の窯元の12代当主、加藤裕重さんの対談が実現しました。
実は、大和屋の100周年記念に特注の豆皿セットを加藤さんへお願いして制作していただいている経緯もあり、取材当日はその制作工程や試作品も見せていただきつつ、昔懐かしい思い出話を挟みながらの和やかな対談となりました。
前編・後編の2本にわけて、たっぷりお届けします。
《お話を聞いたひと》
(写真右)
喜多窯 霞仙 12代当主
加藤裕重さん
1959年、愛知県瀬戸市赤津町生まれ。東海高等学校、明治大学卒業後、家業に入り、祖父と父に師事。1998年に、喜多窯12代当主を受け継ぐ。日本各地はもちろん、海外でも個展や陶芸指導を行う。
(写真左)
株式会社大和屋 代表取締役
太田啓一さん
1959年、愛知県生まれ。東海高等学校、関西学院大学卒業後、アメリカ留学を経て1983年に大和屋に入社。2002年、3代目社長に就任し、海外生産拠点の開拓に尽力。現在は国内外で販売を展開する。
高校時代の同級生、似た者同士のふたり
ーお二人は学生時代の同級生とお聞きしていますが、改めてどのようなご関係か、教えていただけますか。
太田 裕重とは、東海中学校・高等学校の同級生です。
高校は12クラスくらいあったので同じクラスになったことはないんですが、なぜだか仲良くなって、今も何人かのグループでこうして定期的に会って話して、酒を呑み交わす仲で…。
加藤 昔の私立高校って結構わかりやすくて、医者の息子とか、中小企業の社長の息子とか、そういう子ばかりが通っていました。
なんというか、そのときから啓一は「家業を継ぐ仲間」みたいな、似たオーラを感じていたのかも。「こいつ、同じ匂いがするぞ」みたいな、そんな感じ。
太田 確かに(笑)。
当時のこのエリアの中小企業って、繊維業や自動車関連の工場、あとは裕重みたいな焼きものとか、そういったいわゆる「日本の産業を支えていた企業」がたくさんありました。
その跡継ぎたちがたくさんいる高校、という感じですね。
加藤 父の代は、本当にいい世代だった。
景気が良くて、ものをつくればつくっただけ売れて。業績もぐんぐん伸びていった時代。
右肩上がりでどこまでも上がり続けたあと、その雲ゆきが少し怪しくなってきたころに家業を継ぐことになる、そんなタイミングだったのが我々の世代ですね。
太田 確かに、父の時代と比べると、僕らの時代というのはいわゆる変革期にあたるところだったかもしれません。
高校の同級生にも、同じように家業を継いだ人は何人もいるけれど、今も続いている人もいれば、産業の衰退により辛酸を舐め、ついに畳んでしまった人ももちろんいます。
加藤 確かに。
僕らの世代は、何かを乗り越えるための試練に立ち向かいながら、家業を継いできた世代だと思います。
家業のバトンを受け取った、その想い
ー加藤さんの家業、瀬戸焼の窯元「喜多窯 霞仙」さんについて、教えていただけますか。
加藤 「喜多窯 霞仙」の開窯は明暦年間の1656年と伝えられていて、350年以上続く窯元です。
このあたりは昔、赤津村といわれる陶家の集落で、日本六古窯のひとつ、瀬戸焼のなかでも名古屋城の御用窯として茶陶に関係する食器など、赤津焼と称される器づくりが盛んでした。
赤津焼は伝統ある瀬戸の焼きものです。織部釉、黄瀬戸釉、志野釉、御深井釉、古瀬戸釉、灰釉、鉄釉の「赤津焼 七釉」としても知られています。
「喜多窯 霞仙」は、地元の陶土と、代々受け継がれてきた伝統の技術を大切にしながら、日本の食にかかわる器づくりを続けている窯元です。
現在は、うつわの販売はもちろん、大学の非常勤講師、そして1ヶ月間住み込みで陶芸修行をする、外国人向けの陶芸体験プログラムなども展開しています。
太田 海外製の安価な陶器がはびこり、なかなか生き残りの厳しい焼きものの世界で、着実に伝統の窯を継続している姿を見て、いつもすごいな、奇抜なことを考えるなあ、と感心しきりです。
確か、裕重は東京の大学を出てすぐ、家業を継ぐことになったんだよね?
加藤 瀬戸には県立の「瀬戸窯業高校(現:瀬戸工科高等学校)」があって、そこを出てすぐ働き始めることもできるので、このエリアの焼きもの屋の息子たちは、瀬戸から一歩も出ずに家業を継いで一生を終える人たちが、当時はとても多かったんだよね。
でも、高校で啓一をはじめたくさんの友人に出会って、ほかにもいろんな人との出会いがあって刺激を受けて、「もっと外の世界も見てみたい」と思って。両親に「お願いです、4年間だけお江戸に行かせてください…」と懇願して、東京の大学に進学しました。
子どもの頃からずっと、当たり前のように「家業を継ぐ」ものだと思って育ってきたものの、まだ二十歳そこそこで「自分の将来って?」と自問自答することも、もちろんありました。
でも、両親が瀬戸で焼きものを生業としながら、とにかくいつも楽しそうなんですよね。
その姿を間近で見てきて「継ぐのも悪くないな」と、素直に思えたのが、継ぐきっかけだったのかもしれません。
太田 350年続く窯元を、こうして守ってさらに大きくしているんだから、本当に「素晴らしい!」の一言に尽きるし、心から尊敬するよ!
我々も100周年とはいえ、比較したら孫、ひ孫以下の段階で、足元にも及ばないので…。
加藤 いやいや、でも大和屋さんみたいに大きな企業に成長して、そしてこうして周年をしっかり祝っていることは本当に素晴らしいし、我々も見習いたいところ。
100年続く企業を成長させ続けることも、節目節目を大切にして、また次の100年を見つめていく姿勢も、誇るべきことだと僕は思うな。
それにうちの窯は、啓一も知っている通り、一度会社が倒れた時期があるから…。
2005年ごろ、焼きもの一本だったところから、規模拡大を目指して飲食事業を展開して…。そのころ、瀬戸の町おこしにも力を入れていた時期がありました。
太田 当時は瀬戸市の市議会議員もやって、大きなフレンチレストランも経営して、町おこし企画もいろいろ手がけて…と、テレビや新聞などのメディアで、何度も裕重を見かけた記憶が。
加藤 当時は、「窯に篭っているだけじゃなくて、もっといろんなことをしたい!」という、外に向いた気持ちが大きかった。
何かを企画するのが元々好きだというのもあるかもしれないけれど、とにかくそれが刺激的だったんだよね。
もちろんいい時期もあったけど、投資が莫大すぎたこともあり、最終的にはどうにもならなくなってしまって、会社は倒産…。その瞬間に、手元に何もかも何もなくなって、すっからかんになってしまった。
太田 そこからは、どうやって再興を?
加藤 地元では「一度潰れた窯」というレッテルが貼られて、土地も建物も何も残っていない状態で、本当に誰にも会いたくない時期もありました。
育ち盛りの息子たちもいたし、業界としても先細っていくばかりだったから、「いっそのこと別の仕事をするか?」と考えたこともあったけど…。
でもやっぱり、自分には焼きものしかない。
それでも、これまでと同じような大量生産で卸問屋に安価で売るような大口取引は難しいだろう、と考えたとき、「じゃあうちの窯の強み、僕自身の強みってなんだろう?」というのを考えながら、まずは3つの柱を立てて「もう一度窯に火を入れたい」と決意して、立ち上がりました。
太田 「3つの柱」というのは?
加藤 まずは、うちの窯が300年以上の伝統があるという強みをしっかり打ち出して、日本六古窯のひとつ「赤津焼」を、祖父の時代のつくりかたでしっかりと再現し、伝えていくこと。
そして、これまでのような量産ではなく、手仕事としての焼きものを大切にして、その価値を打ち出していくこと。
最後に、JICAで経験した海外での陶芸指導や、英語での陶芸体験の指導経験を生かして、得意な英語を駆使してグローバルな展開を見据えていくこと。
これらを意識して、ゼロから工房の立て直しを計画しました。
「夜逃げとかではなく、弁護士を立てて粛々と整理してゆけば、きっと再起できるはず」という強い気持ちがあった。
それも今思うと、海外での経験があったからこそ、そう捉えられたのかもしれないなあ。
太田 それで今は、いわゆる巨匠ではないけど、日本で一番、海外に知られている陶芸家だよね!
旧友として、本当に頼もしいです。
窯元の倒産から再出発、そして今に至る
ー加藤さんは窯の再出発にあたり、どんなことからスタートしたんですか。
加藤 20年前って、窯元で英語版の自社サイトを持っているところは少なかったんです。
まずは外国人の一日陶芸体験を受け入れたことがきっかけで、そこからクチコミで広がっていって。英語が話せる陶芸家がいるぞ、ってことで、講師として海外へ行くことも増えました。
一方で、一日陶芸体験に来る外国人からは「一日体験だけでなく、もっと長期的に陶芸を学びたい」という声も上がっていて、試行錯誤していたところ、ちょうど東京のエージェント会社と出会いました。
その会社は、日本の伝統文化を深く学ぶ滞在型プログラムを外国人向けに提供しているベンチャー企業で、うちが外国人の体験受け入れをしているのを見つけてくれて、そこから滞在型の体験プログラムを提案してくれて…。
それがきっかけとなり、現在の「一ヶ月滞在型」の弟子入りプログラムが生まれました。
太田 その滞在型プログラムは、完全に海外向けで、当たったよね。
加藤 そう。海外向けで、これまでのべ300人くらいの外国人に陶芸を教えてきたかな。
一日陶芸体験教室で使っていた場所を彼らの制作場所として解放して、かつて社員寮だった二階を改装してゲストハウスのように泊まれる仕様にしました。
このプログラムは、一ヶ月間滞在しながら焼きものを深めてもらうというもの。
ほぼ初めて土に触れる人もいれば、海外で陶芸家として活躍していて修業のためにここに来る人もいるし、何度も繰り返し通ってくれている人もいます。
太田 特にこういう職人の世界で、裕重みたいに言葉の武器があるというのは、海外市場において本当に強い武器になると思うし、そこにさらに350年の伝統という確固たるものがある。
それはほかにはない付加価値になったんだね。
加藤 焼きものの世界には大御所の先生がたくさんいて、おそらく弟子入りもできる。
でも、陶芸を学びたい人がみんな、師匠の作風を真似たい!と思っているわけではないんだよね。
そういう意味では、伝統の職人技、その手法そのものをベーシックに、それも英語で学べる場というのは、意外と需要があったというのは僕もやってみてわかったところではありました。
瀬戸は、陶器も磁器もつくる産地で、量産ノウハウもある。
滞在型プログラムでは、焼きもののつくりかたや道具の扱いかた、焼成技術など、その方法を教えるのはもちろんですが、つくったものを売るためにはどれくらいの速さで手を動かさないといけないのか?といったことまで、ちゃんと伝えています。
太田 なるほど。
量産のノウハウがあるからこそ、ものづくりをするうえで大切なことが、しっかりと伝えられる。
確かに、そんなことまで教えてもらえる教室は、他にはなさそうです。
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今回は加藤さんの窯の歴史を中心に、お話をお聞きしました。
後編では、大和屋の歴史や、お互いが考える「グローバル展開」、今後の展望などについてお聞きします。
ライター 後藤麻衣子